スピリチュアルによく出てくる言葉なんだけど
「ジャッジしてはいけない」という言葉。
どんな良い言葉も理解を誤るとか
曲解してしまっては意味が無いのだけど
この「ジャッジしてはいけない」というのも
自分に都合良く使ってしまえる言葉だけに
気を付けないと、と思うのね。
そもそも何かを「ジャッジ」と見なした時点で
その事自体が「ジャッジ」じゃないか?
と私なぞは思っているんだけど。
スピリチュアルが扱う「見えない世界」とか
「心の問題」については
狭い範囲の常識を当てはめてしまうと
時に見るべきものを見失う、見誤る、
といのは事実だと思う。
例えば日本なんてホントに狭い島国で
この狭い土地の中の常識だけで
すべてを判断しようとするなら
窮屈なことこの上無い。
しかし
この土地で生活することを選んでいるなら
それなりにこの土地の常識にも
合わせて振る舞う必要はあるわけで
振る舞いは適度に周囲に合わせつつ
内面は自由である、という生き方で
適当に人生やり過ごして行ければ、とか
考えていたりするのですが・・・
時々しんどくなってるのは
やっぱりドコかに無理があるのかな〜。
たとえ「ジャッジしない」としても
何かを判断する基準は必要なのですが
その際に言われがちなのは
「社会常識の範囲内」とか
「人に迷惑を掛けなければ」みたいなこと。
しかしそれすらも超える事態も起き得るのが
「スピリチュアル」って奴で(笑
人間のチッポケな「人智」なんて
ホントに笑っちゃうぐらいに軽々と
超えちゃうことがある。
彼方の存在達っていったい何考えているんだ?
と思いながら呆れながら「参ったな〜。」と
頭抱えて悩んで困ってジタバタして
それでも真正面から受け止めて
悩んでもがいて愚痴りながらも
自分なりに頑張ろうとしていれば
それなりに見守ってくれる優しさも
どうやらあるみたい?かな?
私の記憶はかなり微妙なんだけど
それでも多少は古い記憶が残っていて
それが今の人生の何かの拍子に
時々フラッシュバックしてくるのね。
そして他人のやることを見ながら
「あ〜また同じことやるんかな〜。」
とイライラしたり凹んだり。
同時に私も誰かから同じように
「また懲りずにやってるわ。」と
思われていたりするのかな?と思ったりもして。
でも最近は繰り返しを恐れなくなったかな。
自分の繰り返しも
他人の繰り返しも
とりあえずは
それはそれとして受け止めて
まさか今回はそれだけで終わるつもりじゃないよね?
と思って見るようになってきたかな。
以前の自分も今の自分も
どこか似た要素を持ってしまうのは
元が同じ魂なんだから仕方無い。
そして
似たようなことをやらかしたとしても
今度はそこから以前とは違う結果を導き出せるなら
それで良いんじゃないかな?ってね。
繰り返しを恐れて逃げて、避けても
繰り返すべきものからは逃れられないんだよね。
それを繰り返してやり直して
前回導き出せなかった答えを
今度こそ出したくて生まれ直してきた、って
こともあるんだと思うんだよね。
コレも私は音楽やダンスと同じだと思ってて
同じ要素でもバリエーションが異なれば
全然異なる表現が産み出せるように
今度はどういうバリエーションで
どういうものが産み出せるのだろうか?と
実験しているようなものじゃないか、とか。
恐れていても
逃げていても
何も産み出せないし
産み出せなければ
産み出せるまで何度でも
彼方は色々仕掛けてくる気もするし
仕掛けは既に色々と。
それが結果として何か出て来るのか
何も出て来ないままで終わるのか
私には分からない見えないところで
結果として何かが動くことになるんだか
私は大きなことは
よく分からないのであまり考えない。
ただ社会常識的にどうであれ
大切にするべきだと思ったものを
大切にすることだけ考えている。
深い部分から感じられる
優しさ、思いやり、心遣い、
それらが繊細な波動として伝わるのを
周囲が何と言おうと
自分の中のチッポケな常識が困惑しようと
大切にするべきものとしか思えない。
魂の声を頭で否定することは
ある意味で「人」として生きること
否定してるようなもので
しかし魂の声のままに生きることは
現実問題なかなか難しいことでもあって
一番良いor少しでもマシな
方法は?生き方は?と
試行錯誤、暗中模索の日々は続くよ、と。











