「天岩戸に思うことつれづれ」
という日記に書いたことの補足。
あの日、「濱名惣社神明宮」に行った時に
2年ほど前に「謎〜?」と思ってたことも
ちょっと理解できた、かも、と思えた。
「謎〜?」と思うことに
ちょくちょく出会うんだけど
そのほとんどは少し時間が経ったら忘れてて
ふとした拍子に「あ、そういえば。」と
何気に思い出したりする。
その場に行かないと思い出せないこともある。
もともと忘れっぽい性格なのですが
その程度にしておかないと
キリが無いってこともあるし。
何で「濱名惣社神明宮」を思い出したのかも謎。
でも行ってみたら
それなりに納得したことも。
2年ほど前は敏感体質な知り合いと
次男君と一緒に行ったのですが
私もその知り合いも
「何だかココには行きたくない。」
という場所があったのね。
でも次男君はドンドンそっちに
向かって行っちゃうので
仕方無く後を着いて行くことに。
私も知り合いも目の前の空間が歪んで
強烈にクラクラして「何コレ?」
と言いながら歩いたものです(^ ^;
あの時、次男君がいなかったら
私も知り合いもソコには
絶対に近づかなかっただろうし
近づかなかったら体験してなかったし
体験してなかったら
ただ「何となく怖かった」というだけで
その後、二度と近づこうとしなかったかも。
今回、改めて行ってみたら
やっぱり同じように感じた。
感じたけど
2度目だということで冷静だったし
足を止めてしっかり感じようと思ったら
私の中にスルスルと入っちゃった(^ ^;
その「正体」については
何〜も考えてないし
分かってないんだけど
分からない、ということは
私には分かる必要が無いんだな〜と
今でも結論なんて放置してる。
疑問はといえば
私の中になんて入るより
他にもっと良い所があるんじゃないの?
なんでわざわざ時間掛けて
私の所に来たの?ということだけ。
それも
あなたがそれで良いんだったら
ま、良いかと思ってる。
「判断しない」ということ。
「何も判断しない」ということ。
↓
「全てを認める、受け入れる」ということ。
こうあるべき、こうあるもの、は
ちっぽけな自分の中の価値観に過ぎないもので
世界はもっと広くてもっと深くて
私はその片隅にいるだけだということ。
何を知った気になったところで
それはホントに砂漠の砂の一粒程度に
過ぎないということ。
全てのことに畏敬の念を持ち続けること。
ちっぽけな自分自身に対しても。
それが世界を広げるんだ。
1人1人の世界が広がれば
世界はもっと広がっていく
自由になる。
目に見えない世界のエネルギーは
大きくて自由で浸透率が高くて
生身の人には影響力が凄く強くて
だから
振り回されないように
振り回さないように
弄ばないように
奢らないように
喜びが過ぎないように
見えない力を
コントロール出来たと思っても
それもホンのわずかの事に過ぎなくて
自分をコントロール
制御することの方が
よっぽど確実なコントロール法であって
う〜ん、私、いったい何を書いてるんだ?
最近、時々
大きなエネルギーのアクセスがあって
そういう時には本当に意識が
乗っ取られそうな感じになる。
まだまだ、ってことかな〜。












完璧とかゼッタイっていうのはなかなかありえませんからねぇ